蕎麦・よもやま話

屋号に庵の多い理由

江戸時代中期頃、江戸浅草芝崎町に、浄土宗の一心山極楽寺称往院という念仏道場があり、 その院内に道光庵という支院があった。
この庵主は信州の生まれだったので、蕎麦が好きだっただけでなく、蕎麦打ちも大変上手だった。
そこで享保(1716-36)の頃から檀家の人々に自ら打った蕎麦を出して喜ばれていた。
蕎麦は浅い椀に盛った真っ白い御膳蕎麦で、寺方なので魚類のだしは 使わない精進汁に辛味大根の絞り汁を添えて出した。町の二八蕎麦しか知らなかった檀家の人々は その旨さに驚き感心し、その蕎麦を目当てに盛んに押しかけるようになる。
更には檀家以外の人々までがその評判を聞きつけ、信心にかこつけて食べに来るようになったという。
寛延(1748-51)頃になると、その評判はいよいよ高まり、安永6年(1777)刊の評判記 ”富貴地座位”中巻(江戸名物)では、本職の蕎麦屋を押しのけて筆頭に上げられるほどであった。 この”そば切り寺”道光庵の名声にあやかろうと、当時の蕎麦屋の間では競って屋号に庵号をつけるのが流行した。
天明7年(1787)刊名店案内75日に紹介されている東向庵(鎌倉河岸竜閑橋) 、東翁庵(本所緑町)、紫紅庵.(目黒)、雪窓庵(茅場町)の四軒がその先駆けで、 文化(1804-18)の頃にはその流行は頂点に達した。今でも残る庵号には、 長寿庵、松月庵、大村庵、萬盛庵などがある。 しかし道光庵のそば切りは長くは続かなかった。繁盛のあまり寺なのか蕎麦屋なのかわからなくなり、 見かねた親寺称往院の再三の注意にもかかわらず内緒で蕎麦を振舞い続けたため、 天明6年(1786)、ついには蕎麦禁断の石碑が門前に立てられ、大繁盛のそば切りは三代にして 打ち切られた。


夏蕎麦と秋蕎麦

日本ではそばの単作は少なく、他の作物と輪作を組んで作られる事が多い。 それでも本州中部山間部とか北海道の一部のように、単作地帯はいくらでもあって 中には蕎麦の二毛作をしているところもある。関東地方では四月播種、七月収穫の夏蕎麦と 八月播種、十月収穫の秋蕎麦を作り、後は畑を遊ばせておく所もいくつかある。
夏蕎麦と秋蕎麦の違いは、一言で言えば日長反応の違いといってよい 夏蕎麦は日長に対し反応が鈍感で、秋蕎麦は敏感である。夏蕎麦は一般に開花が早く開花期間が短く、草丈が低い。
これに対し秋蕎麦は開花が遅く、開花期間が長く、草丈が高い。夏蕎麦を夏播きしたり、秋蕎麦を春播きすると収穫が著しく悪くなるといわれている。 日本各地にはそれぞれの土地の気象条件に順応した蕎麦の品種があり、夏蕎麦タイプ、秋蕎麦タイプ、そしてその中間系がある。
夏蕎麦タイプには北海道の”キタワセソバ” 青森の階上早生、長野のしなの夏そば、秋蕎麦タイプには福井の福井在来種、高知の高知在来種、 宮崎の宮崎大粒などがある。中間タイプには茨城の常陸秋蕎麦、長野の信濃1号、信州大そばがある。


二八そば

 ”二八蕎麦”の解釈をめぐっては、さまざまな議論がされて来ているが、”二八、十六” のごろで一杯十六文とする代価説と、蕎麦粉八割につなぎの小麦粉二割で打った蕎麦を表した物であるとする混合率説とに大別される。
どちらが正しいかはいまだに結論は出ていないが、 慶応年間(1865-68)を境にして時代を前後に区別して考えれば、両説とも理に適うという解釈が有力である。 代価説に関する文献としては、”衣食住記”があり、”享保(1716-36)半比、神田辺にて二八即座けんどんという看板んを出す”とある。
別に”享保世説”の享保13年(1728)のところ には、”仕出しには即座麦めし二八蕎麦 みその賃ずき茶のほうじ売り”という歌が載っており、 二八蕎麦享保起源説を立てる根拠となっている。
混合率説を取っている文献は慶応元年(1865)刊宮川政運著”俗事百工起源”と同年刊 喜多村香城著”五月雨草子”で、二八とは十六文という意味だと世間では云われているが、 実は蕎麦粉八割につなぎの小麦粉二割で打った蕎麦の事だと述べている。 そこで蕎麦の値段が20文を超えた慶応年間を境にして、それ以前は代価説、以降は混合率説と 解釈するのが妥当だろうという事になる。