ヒカリファイバ
歴史[編集] [Wikipedia] :http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%85%89%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC&action=edit&section=8
17世紀に、波動の屈折の法則が、ヴィレブロルト・スネルによって定式化された。
1820年に、ガラス板の中に光が閉じ込められる条件が、オーギュスタン・ジャン・フレネルによって定式化された。
1840年ごろ、反射による光の誘導の公開実験が、Daniel Colladonとジャック・バビネによってパリで行われた。
1870年、ジョン・ティンダルが光の全反射の条件を記し、水流で光を曲げる実験をロンドンで行った。
1880年、音声を可視光線の信号に乗せ通信を行うPhoto-Phone実験が、アレクサンダー・グラハム・ベルによって行われた。
1888年ごろ、初期のテレビ画像伝送の試みとして、曲がったガラスパイプやガラスロッドに光を通す方法がウィーンやフランスで考案された。
このころから、テレビの画像通信や潜望鏡、胃カメラなどにさまざまな光の導波路を用いる試みがなされた。
1910年、光の閉じ込めをガラス繊維に拡張した条件が、ホンドロス(D. Hondros)とピーター・デバイによって定式化された。
1925年、空洞のパイプやガラス・プラスチックロッドをつなげた光の伝導路で画像を伝送する方法の特許が、ジョン・ロジー・ベアードによって出願された。
1930年、ドイツのハインリッヒ・ラム (Heinrich Lamm) が、ガラス繊維の束に光を導く実験を行った。これが、ガラスファイバーの束に光を通す初めての試みとなった。
1936年、逓信省研究所の関杜夫と根岸博(清宮博)が、ガラスロッドの湾曲部にプリズム・レンズを用いて、全反射によって光線信号を伝送する光線導管による光通信を考案し、特許を出願した[5]
1958年になるとガラスファイバーの芯を違う種類のガラスで巻くという、コアとクアッドによって構造される石英ガラスファイバーがイギリスのカパニー(Narinder Singh Kapany)によって考案される[6]。これにより、ケーブル内の屈折率の違いによって光を全反射で誘導するという光ファイバーの基礎が確立された。また、このとき初めて「光ファイバー」という言葉が使われた。
1961年、Elias Snitzerによって、シングルモード光ファイバーが提案された[7]
1964年、西澤潤一、佐々木市右衛門は、ガラスファイバーのコア内の屈折率を中心から周辺に向かって連続的に低くなるように変化させ、入射角の異なる光をファイバー内で収束させる自己集束型光ファイバー(今日にいうGI型光ファイバー)の概念を特許出願により提案し[8]、自己集束型光ファイバーによる光通信の可能性について言及した。しかし特許庁は意味がわからないと不受理にした[9]
同様の構造の光ファイバーは、ベル研究所のスチュワート・ミラーによっても提案されている[10] 。ミラーは、ガラスが効率的な長距離伝送の媒体となることを理論的に示した。
1965年、チャールズ・K・カオの論文により、ガラスの不純物濃度を下げれば光の損失を低減できるので、損失率が20dB/kmであれば通信用の光ファイバーに利用できる旨の提案がなされた。これまでに確立された理想的なガラスファイバーの理論から、不純物を含む現実的なガラスファイバーでの光の減衰特性の理論を唱えた画期的なものであった。
これにより、ガラスファイバーの不純物を下げる研究が活発に行われるようになり、光ファイバーは実用化に向けて大きく前進した。
カオは、光通信用の光ファイバーに対する先駆的な貢献により、1996年に日本国際賞、2009年にノーベル物理学賞を受賞した[11]
1965年、世界初の光ファイバーによるデータ転送システムのデモンストレーションがドイツの物理学者マンフレッド・ベルナーによってテレフンケン研究所で行われ、このシステムの特許が1966年に申請された[12] [13]
1966年には、西澤の研究は日本板硝子と日本電気によってセルフフォーカスファイバー「セルフォック」として実現される。その時点では60dB/kmが限度であった。
1970年、アメリカのコーニング社が通信用光ファイバーを実用化したと発表し、光ファイバの製造法とカオ論文に示された光ファイバの構造を始めとする基本特許(米国特許第三六五九九一五号)を得た。コーニングの光ファイバーは非常にもろく、まだ実用化にはほど遠いものであったが、カオの理論通りに20dB/kmの損失を達成した[14]。日本の特許庁はそれが西澤と類似するものであることを知りながら口をつぐんだ[9]
またコーニング社の発表に続く形で、不純物のドーピングによる多層結晶成長の技術によって、常温で連続作用可能な半導体レーザーがベル研究所のパニッシュと林厳雄によって試作された。
同時期に、同研究所のアーサー(A. J. Arthur)とチョー(A. Y. Cho)が新たな結晶成長方法、分子線エピタキシー(MBE)を考案した。MBEで作った新素子は寿命100万時間を達成した。
これらの技術により、光ファイバーのレーザー光源の技術が確立された。
1974年、ベル研究所のジョン・マクチェスニーはMCVD(内付気相堆積)法での光ファイバーの製法を編み出した[15]。 この結果、損失率は1.1dB/kmに達する。
1977年、日本電信電話公社(現在のNTT)の茨城電気通信研究所の伊澤達夫が、VAD(気相軸付け)法による光ファイバーの製造方法を発明した[14][16]
1980年には、VAD法によって、損失値は0.20dB/kmに達した。 現在、VAD法の製造スピードはMCVD法の約100倍となっている[17]
1985年、サザンプトン大学のプール(S. B. Poole)が、エルビウムという元素を光ファイバーのガラスに少量加えると、光だけで動作する増幅器を作れることを発見した。この発見をもとに、サザンプトン大学のペイン(David Payne)とミアーズ(P. J. Mears)、ベル研究所のデサビアー(Emmanuel Desurvire)が、エルビウム添加ファイバー増幅器(EDFA)を開発した。これにより、レーザー中継による光信号増幅器よりも効率の良い伝送を行うことが可能となった。[18] [19]